もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
女性と仏教
平塚らいてふ年譜
- 明治19年(1886)、東京麹町に生まれる。本名、明(はる)。
父、定次郎は、明治政府の役人、会計検査院に勤める。
- 明治36年、17歳、日本女子大学に入学。
校長の成瀬仁蔵に哲学を教育された。
- 明治37年、哲学書、宗教書を読みあさる。本郷教会に出入りする。
- 明治38年、日暮里両忘庵の釈宗活のもとで禅の修行に励む。
- 明治39年、日本女子大卒業。禅の修行を続ける。
見性に達し、慧薫の名を授けられる。
- 明治40年、21歳、成美女子英語学校に入学。
- 明治42年、神田美土代町の日本禅学堂で参禅。
西宮市の海清寺で参禅し、また見性、全明の名を受ける。
- 明治44年、25歳、らいてふを発起人として女性文芸雑誌『青鞜』発刊。
創刊の辞『原始女性は太陽であった』は大きな反響を呼ぶ。
- 大正 元年、26歳、『青鞜』に発表された荒木郁子の小説「手紙」
によって発禁処分を受ける。
- 大正 2年、『青鞜』がまた発禁処分。
- 大正 3年、28歳、奥村博(23歳の画家)と結婚生活にはいる。
女を法的無能力者とする家族制度への怒りから、夫の家に入籍する結婚の道をとらず、婚姻届けを出さなかった。
『青鞜』は販売不振、社員の離散に悩む。30歳の時、廃刊。
- 大正 4年、29歳、長女あけみ出産。31歳の時、長男敦史出産。
- 大正 7年、与謝野晶子との母性保護論争を開始。
- 大正 8年、『我が国における女工問題」を『婦人公論』に発表、
婦人の労働について発言を始める。
- 大正 9年、当時は、治安警察法第5条で、婦人の政治活動が禁止されていた。
婦人参政権獲得の運動に従事。
市川房枝、奥むめおらと、「新婦人協会」を発会。
婦人参政権と母性保護を要求。
雑誌『女性同盟』を創刊。
- 大正10年、市川房枝、協会から離れて、アメリカへ行く。
山川菊栄が『太陽』にらいてふを攻撃する文を載せる。
らいてふは体調を崩し、千葉県竹岡に家族とともに転居。
博は神経性のじんましんがひどく栃木県佐久山に移り、那須温泉、塩原温泉で静養。
- 大正11年、治安警察法第5条が改正され、婦人の政治活動が認められる。参政権はなかった。「新婦人協会」を解散。
- 大正12年、東京に帰り、千駄ケ谷に住む。
- 大正14年、千歳烏山に転居。博史が成城学園の絵画と演劇の教師となる。
この頃数年間はりてふは社会活動に参加せず、家庭にあった。
- 昭和 3年、総選挙で、らいてふは婦選をうたう無産政党を応援した。
- 昭和 4年、43歳、らいてふは、社会主義政党に満足せず、
消費組合運動に向かう。
東京共働社消費組合成城支部の会員となる。
- 昭和 5年、消費組合「我等の家」を設立、組合長となる。
高群逸枝に誘われて、無産婦人芸術連盟の一員となる。
- 昭和13年、52歳、「我等の家」を家庭購買組合と合併。
- 昭和17年、博史とともに茨城県小文間村に疎開、農耕生活に入る。
- 昭和22年、61歳、疎開先から帰京し、成城の家に敦史夫妻と同居。
- 昭和24年、世界連邦建設同盟に参加、理事となるが、のち運動から離れる。
婦人の日大会から、婦人参政功労者として感謝状を受ける。
- 昭和28年、全日本婦人団体連合会を結成し、会長となる。
国際民主婦人連盟副会長に就任。
- 昭和30年、婦団連の会長を辞任、名誉会長となる。
- 昭和37年、76歳、新日本婦人の会が結成され、代表委員となる。
- 昭和41年、80歳、「べトナム侵略戦争をやめさせるための全日本婦人 の訴え」を発表、反戦運動を行う。
- 昭和45年、市川房枝、植村環らとともに、安保条約延長反対を訴える。
- 昭和46年(1971)85歳、胆嚢胆道癌により永眠。
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